オフィス北野からの独立騒動で最近では毎日報道されていた北野武さん。
どうもその騒動もようやく落ち着いてきているようですね。
注目度もすごい大御所ですが、そもそもどんな芸能界活動してましたっけ?
北野武さんを調べてみました。
北野武のプロフィール
北野武さん=ビートたけしさんは1947年1月18日、浅草で生まれました。
現在71歳なんですね。とても70歳以上とは思えないです。
お兄さんは北野大さんしか知りませんでしたが、北野武さんは四男なんですね。
1人は早くに夭逝してしまったようですが、北野大さんの他にお兄さんが一人、お姉さんが一人いて、
お兄さんは宇野製作所の取締役をしているそうです。
北野武さんだけでなく、お兄さんたちもすごい人たちなんですね。
小学校の頃は教育熱心だった母親のおかげでとても成績優秀でした。
そのため近くの中学校ではなく、遠くの進学校の中学校へ通っていたそうです。
中学卒業後は東京都立足立高等学校へ進学します。
部活は小学校の頃から一貫して野球部だったそうです。ボクシングのイメージだったんですが、高校時代にボクシングジムに通っていたそうです。
その後、明治大学工学部の機械工学科へ進学しますが、大学が合わず通学せずに除籍になります。
途中で一人暮らしを始め、アルバイト三昧だったようです。
ボーイやタクシー運転手、ガソリンスタンド店員などしながら、学生演劇に参加したりしていたそうです。
あの時代は学生運動などもあったりして不安定な時代でしたもんね。
北野武さんも学生運動には参加したことあるみたいですが、熱心ではなかったようです。
演劇での参加も舞台俳優ではなく、構成に携わっていたそうです。
ただアングラ演劇には馴染めず、演芸なら自分にも理解できるだろうと芸人を目指すことを決めたそうです。
しかし教育熱心だった母親の理解は得られず、芸人を目指した北野家の武の存在はなかったものになっていました。
とても成績優秀だっただけに母親の期待も大きかったんでしょうね。
1972年に芸人見習としてエレベーターボーイを浅草フランス座などで始めます。
浅草ストリップ劇場の経営者兼座長であった深見千三郎さんに師事し、その時に得たものが後のツービートの芸風の基礎として取り入れられます。
しかしコントを主軸とする考えの深見千三郎さんは、漫才を主軸にしたかった北野武を破門します。
漫才を主軸にしたかったのは、フランス座に出入りしていて、一度コントで共演したことのある兼子二郎さんからコンビの誘いがあったときに、当時浅草フランス座が経営難で給料の支払いが滞っていたことや、その時の相方が病気で入院して自然消滅していたので、背広一つで稼ぐことができる漫才に魅力を感じていたからだそうです。
それでもコンビを組んだ最初はうまくいかず、困窮していましたが、ツッコミだった兼子二郎さんと役割を変更し、「ツービート」と改名、芸名をビートたけしにします。
あまりにウけないので、客に暴言を吐いたりいじったりしていたことが徐々にスタイルになり、それがツービートの原型となりました。
また、大阪の漫才師B&Bの島田洋七に影響を受け、間を減らしたテンポの速いスタイルへ変更し、服装も変えて古い漫才師からの脱却を図りました。
このスタイルしてから人気が出て、出演回数が増えます。その型破りな漫才は他の芸人も見に行ってしまうことから、
「ツービートが漫才を始めると楽屋が空になる」と言われました。
それでもやはり一部の関係者にその芸風は受け入れられず、なかなか知名度は上がりませんでした。
そんな1979年に女流漫才師の「ミキ&ミチ」の内海ミキ、本名松田幹子さんと結婚します。
妻、幹子さんとの間に2人の子供が産まれています。
しかし幹子さんの他に愛人がいて、その愛人との間に娘もいるそうです。
また孫もいますが、長女が離婚後に養子縁組して自分の子供としています。
どうしてそうしたのか分りませんが、孫を手放したくなかったのかもしれませんね。
その年の9月に父親が逝去し、11月には「花王名人劇場」の月の家円鏡の共演者に抜擢、この企画が人気を博して、後の漫才ブームへの布石になりました。
1980年には一気に知名度が上がり、その時に発売したネタ本もバカ売れで、代表的ギャグの「コマネチ」もこの時に誕生します。
「コマネチ」ってそんなに前からあるんですね。
1981年に「オレたちひょうきん族」が開始します。その番組放送中に弟子志願者が押しかけ、たくさん集まったことから、この集団をたけし軍団としてバラエティに出します。
また博識であることも評価されて、「世界まるごとHOWマッチ」などの文化人的な立場の出演も増えます。
色んな番組にレギュラーとして出演。番組の中には北野武さん本人の企画、構成もあり高視聴率を叩きだします。
1985年にはそんあ北野武さんを、タモリさん、明石屋さんまさんと共に「日本のお笑いタレントBIG3」と言われるようになります。
不動の人気の中起きたのが、「フライデー事件」です。写真週刊誌の行き過ぎた取材に怒り、講談社のフライデー編集部を襲撃。
現行犯逮捕されることになります。この襲撃事件は取材の問題を浮き彫りにしました。
その襲撃事件を起こした後、所属していた太田プロダクションを退社し、オフィス北野を1988年に設立します。
ただ事件があって太田プロダクションと仲が悪くなったわけではなく、街宣を掛けられたので、それを指示していた暴力団幹部に自ら行き、事態を収束させたが、その時の条件に太田プロダクション退社があったから、だそうです。
1989年の映画「その男、凶暴につき」では、最初は監督は別の人でしたが、条件などが合わず、北野武に依頼したところ、テレビの仕事との両立を条件に快諾し、監督としてデビューします。
1997年の「HANA-BI」では日本作品として40年ぶりの金獅子賞を受賞します。
今回の独立騒動の真相は?
北野武さんはオフィス北野から独立すると発表したことで起きた今回の騒動ですが、真相はいったいどこにあるんでしょうか?
それには最近のことだけではなく、長年に渡るイザコザがあったようです。
1つは、自社株の所有を増やし、筆頭株主になっていたこと。
勝手にしても違法ではありませんが、オフィス北野と北野武さんの事務所であることは明白なのに、筆頭株主になるなんて、北野武さんからすれば裏切りと捉えられるかもしれませんね。
でもその筆頭株主になったのは随分前の話でした。今まで気がつかなかったんでしょうか。
2つ目は、会社役員たちの報酬が容認できないくらい高額だったことです。
それが発覚したのは、北野武さんが忙しくしているのに昨年9月に赤字に転落したことで、赤字の原因を分析するために財務情報を提供するように求めたことから発覚したそうです。
ただ、会社役員の給与が高額なのがいけないのではなく、所属タレントのプロモーションに注力するという約束を守っておらず、それなのに会社役員には高額の給与を支払っていたから、だそうです。
その事について一度、北野武とたけし軍団と森昌行社長で話し合い、株を全て贈与することや、給与を下げることを約束しましたが、それも守られず、北野武さんはオフィス北野を退社することを決めたそうです。
そんな騒動が急に終結したのは、5月8日にフランスで開幕する「カンヌ映画祭」の最高賞「パルムドール」を競うコンペ部門にオフィス北野の作品が上がっているからだそう。
5月8日までに納めて、映画事業に集中したいのかもしれませんね。
北野武の今後は?
映画制作は森昌行社長と二人三脚でやってきた北野武さん。最近ではテレビにあまり出ていませんし、映画製作が主軸となりそうな感じに見えていましたが、オフィス北野を退社することで、どのようになっていくんでしょうか?
北野武さんがかなり稼いでいましたから、もしかしたらオフィス北野は倒産なんてことも考えられますね。
北野武さんはすでに新しい事務所「T.Nゴン」に代表取締役として就任しています。
なんでこの名前になったのかは分かりせんが、「ゴン」は飼っていた犬の名前だそうです。
新しい事務所は、北野武さんの収入が入り、たけし軍団など売れない芸人を養わなくてよくなっただけ、
かなり潤うんじゃないかと思います。
北野武さんは「自分の時間を増やしたい」と言っていたそうなので、ボチボチ仕事できるくらいにした気持ちがあるのかもしれませんね。
まとめ
色々凄く衝撃的な事をしている北野武さんですが、今後もこんな事件が起きる可能性はありますよね。
71歳という年にも関わらず、まだ何か起こしそうと思えることが北野武さんの魅力かもしれません。
今後も映画にテレビに活躍してほしいと思います。